曽慶市民センター
大東町曽慶字神蔭32-1
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TEL:0191-75-2244

曽慶の人物

歌人 菊池知勇 短歌誌「ぬはり」創刊者

菊池知勇が昭和2年に創刊した月刊短歌誌「ぬはり」は、現在まで続く短歌誌です。 作文教育にも実績を上げ、地元の校歌作詞も、長女るり子の作曲と共に手掛けています。

 曽慶出身の歌人・教育者の菊池知勇(きくちちゆう 1889-1972)は、昭和2年から現在まで続く短歌誌「ぬはり」の創刊者であり、「ぬはり社短歌会」の基礎を作り、歌壇の一角に「ぬはりの菊池」としての盤石な基礎を築きました。歌集に「落葉松」「山霧」などがあります。歌碑となっている知勇の代表的な歌をご紹介します。

第一歌碑 岩手県奥州市水沢公園内

 うつし世に わが生きたれば みちのくの 曠野にともす 小夜の灯火

第二歌碑 岩手県八幡平市大更

 岩手山 すそ野に住めば 天をおふ 吹雪の中に 日を拝みつつ

第三歌碑 岩手県一関市大東町曽慶

 ふるさとは 夏草ふかみ さらさらと きりふりなびく 音ばかりなり

歌碑 岩手県宮古市山田

 わが郷の つはもののみたま ここにせまり 永久に堅磐に み国まもらむ


 教育者としても実績があり、盛岡市城南小、東京市牛島小の訓導(教諭)として従事し、大正15年(1926年)には日本最初の綴方専門誌「綴方教育」「綴方研究」を創刊、綴り方(作文)の国語教育・研究・実践に幅広く尽力されました。

岩手農民の父 佐藤公一 農民を救うべく県立病院の礎を築く

明快で強気、弁論が巧み、ユーモアに溢れる人柄で、人から慕われ 「至誠一貫地味豊かな人間性をもって農民と苦楽をともにした」と伝えられています。 右は岩手県産業会館サンビルにて展示されている胸像。(写真提供: tagutti様 )

 戦前、貧しくて医療を受けることができない農民の福利厚生を改善するべく、岩手県内の病院設立に身を尽くしたのが曽慶出身の佐藤公一(さとうこういち 1889-1961)です。

 幼少期は農家で村会議員の父・作治の影響を強く受けて育ち、また、菊池知勇とは竹馬の友だったそうです。盛岡の岩手県立農学校(盛岡農業高等学校)を卒業後、志願兵として1913年まで従軍。それからは興田小学校訓導(教員)として従事。1918年からは農協などの母体となった産業組合に所属し、産業組合の育成に尽力しました。以後、農民の福利厚生を改善するべく産業組合運動に身を投じます。

 当時の農村は医者不足が深刻であり、1931年時点で岩手県下237町村のうち、半数近い108町村が無医村だったそうです。公一はそのような農民に医療を提供するため、1932年に岩手県薬草販売購買利用連合会、1933年に購買利用組合盛岡病院(現:岩手県立中央病院)を発足しました。のちに釜石、東山、江刺、磐井、胆沢、気仙などの組合病院も設立され、現在の県立病院の礎となりました。

 県議会議員としても県政に4年間携わり、晩年は岩手県国民健康保険団体連合会理事長、岩手県農業協同組合中央会・初代会長などの要職を歴任。農民のために産業組合、政治、医療と、広く横断的に活躍されました。最晩年は自ら立案した農民温泉の視察の帰途にて狭心症のため死去。県公会堂にて行われた農協葬では「岩手の農は如何になり行く」と惜しまれ、最期まで農民のために尽くし、農民に慕われた「岩手農民の父」であります。

初の女性国会議員 菅原エン 岩手全県1区45名中トップ当選果たす

歌人でもあるエンはラジオ選挙演説にて、平安時代の古歌 「何時や知る都は野辺の夕ひばりあがるを見ても落つる涙は」 を引用し、応仁の乱と敗戦後の日本を重ね、逆境からの生活再建を訴えました。

 戦後初の女性参政権が認められた第22回衆議院選挙にて、岩手県選挙区でトップ当選を果たし、初の女性国会議員という快挙を成し遂げたのが、曽慶出身の菅原エン(すがわらえん 1900-1994)です。

 1946年(昭和21年)、GHQによる指示を受けて、戦後初めて女性の政治参加(婦人参政権)が認められ、初の男女普通選挙制度の元で行われたのが第22回衆議院議員総選挙でした。この選挙でエンは日本進歩党から岩手県選挙区、唯一の女性候補として出馬しました。

 公約は「私は百姓育ちなので百姓を地盤として万邦共和のために尽力する」として以下を掲げました。
1.食糧増産のためのドブロク(濁酒)生産を公認する。
2.主食三合配給実現のために国家管理をゆるめる。
 (供米の不平等の是正と、供米完遂後の米殻の自由化)
3.公娼(公認された売春婦)制度を廃止する。
ドブロク/米/公娼というユニークで大変具体的、身近な公約であり、県民の特に農民や女性の多くが共感する内容だったのではと感じられます。

 選挙活動は、モンペ姿で米と味噌を背負い、広大な岩手選挙区を、木炭自動車、列車、バスを乗り継ぎ、ほとんどが徒歩での困難な行脚となりました。しかし、どの演説会場でも、県初の女性候補をひと目見ようと数百人~千人規模の超満員だったそうです。当時、エンの当選を予想した人はほとんどいませんでしたが、地元東磐井はもとより、県南一体を席巻し、まったく縁故のない県北地方からまで支持を得て、結果として女性票の多くを獲得、岩手県選挙区候補者48名中トップ当選を果たし、「岩手ショック」を巻き起こしました。戦後の時代の大きな移り変わりを象徴する、まさにシンデレラストーリーを体現した人でした。

【参考文献】
 佐藤和男「ふるさと散歩道 もっと知りたい曽慶の歴史」
  ※ 主な参考資料として
    ・『大東町史上・下』(大東町)
    ・『遠く曽慶の歴史をたずねて「坂上田村麻呂と曽皆」』
      (平成7年・大東町曽慶史談会)
    ・文化財調査報告書第24集「大東町の地名」
     …ほかの文献資料及び主なウェブサイトを記載しています。
 菊池和夫「菅原エン一代記」
 盛岡市役所HP 佐藤公一(さとうこういち)