曽慶市民センター
大東町曽慶字神蔭32-1
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曽慶の由来

「曽皆(そかい)伝説」~豪族「曽皆」と征夷大将軍・坂上田村麻呂との戦い~

坂上田村麻呂の軍勢は曽皆軍を監視するために「遠見館(とおみだて)」を置く。この場所はその名残で留舘(とめだて)と呼ばれており、今も曽慶を一望できるスポット。

 時代は平安時代初期、今から約1200年前(8世紀末)、現一関市大東町曽慶地区は、その地名の由来のひとつとされている、豪族の「曽皆(そかい)太郎」を邑長(村長)としてこの地を平和に治めておりました。しかしこの時代は、朝廷が「律令制(公地公民)」を推進するため、東北地方(日高見国)への支配を強め、征夷大将軍・坂上田村麻呂に、朝廷に従わない東の土着民・蝦夷(えみし)の討伐を命じた戦乱の世でもあったのです。

 延暦21年(802年)田村麻呂が胆沢の阿弖流為(アテルイ)を討伐後も、その余賊が各地で良民を苦しめているとして、再び田村麻呂へ討伐の命が下りました。 田村麻呂は大軍を率いて宮城県・多賀城から海岸線を北上し、当地の豪族を次々と征伐しながら行軍していき、曽慶の地へ軍を進めました。

 曽皆軍は自らの土地と生活を守るため、民を避難させ、被害を最小限に抑えるべく西へ移動しながら遠く離れて弓矢で果敢に応戦しました。曽皆軍のたった数百の軍に、田村麻呂は苦戦を強いられ熊野神社、出羽神社へ神助を祈願したそうです。そして大同2年(807年)6月15日、曽皆は馬上にて流れ矢を喉元に受け戦死、曽皆軍は総崩れとなり降伏に至ったとのことです。

「岩穴の鬼伝説」

曽皆が居住していたとされる、現在の「惣ヶ(そうか)屋敷」にある岩穴。もとの岩穴は大きく広かったが、今は崩れている。

 蝦夷征伐で勇名を馳せた田村麻呂の、その足跡を巡るように「田村麻呂伝説」が東北地方に広く分布しております。この曽慶の地に口承として伝えられる「岩穴の鬼伝説」もおそらくその流れの一つでは、と考えられます。岩穴の鬼伝説はおおむね以下のように伝えられています。

 ”曽皆は、蝦夷の酋長と言われる阿弖流為(アテルイ)の与党で、この地の岩穴を住居地としていた。曽皆という鬼は良民を苦しめていたので、坂上田村麻呂将軍によって征伐された”


 曽慶地区で鬼にまつわるものとして、曽慶熊野神社には明治時代まで「鬼退治式」「悪態祭」など鬼に関わる祭りや、社宝として鬼の面が伝わっていました。

 かつて、蝦夷など朝廷に反抗する民を、「鬼」と呼ぶ時代があり、朝廷の支配のための大義名分として、曽皆も鬼に仕立てられたのだと考えられます。「曽皆伝説」の"人間曽皆"は英雄として語られ、かたや「岩穴の鬼伝説」の"鬼曽皆"は悪役として田村麻呂の引き立て役とされました。1200年の時を越え、当時の曽慶の民と朝廷、相反するニ者の想いが伝説から垣間見えるようです。

「曽慶」の由来~4つの説~

「曽」は「重なる」という意味であり、「慶」は「よろこぶ」と読めます。つまり曽慶は「慶びが重なる」と解釈でき、吉兆を感じさせてくれる地名です。

かつて曽慶の長が住んでいた場所とされるのが、現在の曽慶1区にある「惣ヶ屋敷(そうかやしき)」であり、この字名が「曽慶」の由来に関わっていると考えられています。

①自治組織「惣(そう)」
「惣」は中世の農民の自治組織のことであり、その長の屋敷があったと考えられます。この「惣ヶ(そうか)」が転じて「曽慶」となったという説。

②赤土
赤土が多いところから「赫処(そほか)屋敷」、転じて「曽慶」となった説。

③地滑り、山崩れの「削(そ)げ」
「削(そ)げ」は地滑り、山崩れでえぐれた斜面のことです。これが転じて「曽慶」となった説であり、2つの根拠があります。
・曽慶の地名にある「神陰(みかげ)」は、崩れやすい花崗岩(御影石)のことであり、がけ崩れしやすかった可能性が考えられる
・岩手県宮古市に「磯鶏(そけい)」という地名があり、その由来が波による「削げ」(浸食)が由来とされている。

④豪族「曽皆」が転じて
伝承の観点からは、岩穴に潜んでいた豪族「曽皆」から転じたという説。「曽皆屋敷」が転じて「惣ヶ屋敷」になったという説。

【参考文献】
 佐藤和男「ふるさと散歩道 もっと知りたい曽慶の歴史」
 結いネットそげい「そげいのお宝まっぷ」